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〈TUJのウクライナ人学生インタビュー〉ウクライナからの避難

  ロシアによるウクライナへの軍事侵攻開始以来、周辺国へ逃れた300万人を含めて1000万人のウクライナ人が避難生活を余儀なくされており、それら避難者の多くは大学生だという。テンプル大学ジャパンキャンパス広報部は、ウクライナ人学生にインタビュー取材を行い、学生が体験してきたこと、抱いている夢や希望、さらに日本への留学を通じて達成したいことなどを語ってもらった。それぞれの体験談は、避難者として外国で勉強する学生の姿を浮き彫りにし、学びに富むものだ。彼女らのストーリーをより多くの方に知ってもらうため、TUJはインタビュー記事をシリーズで紹介することにした。初回はウクライナからの避難や日本に来るまでの経緯を取り上げ、この後も日本の第一印象、TUJでの学び、文化の違いへの適応、ウクライナ復興にどう貢献していきたいかなど、さまざまなエピソードを紹介していく計画。

 第1回 ウクライナからの避難ー安全な場所を求め続けて

 想像を絶する苦難を乗り越え日本にやってきた9人のウクライナ人学生は、多くが母国で身の危険にさらされ、家を失ったり経済的に困窮したりといった苦境に立たされている。学生たちのほとんどは、家を離れるのも自分で決断するのも、飛行機で旅をするのも今回が初めての経験だったという。侵攻開始当時、カリーナはスームィ州立大学でビジネスを学ぶ大学生、ナタリアはキーウ国立文化芸術大学でジャーナリズムを専攻する大学生だった。爆撃から逃れるため家族と共に故郷を離れた彼女たちは、これから自分たちの身に何が起こるか、見当もつかなかったという。(一番上の写真はクラクトルスクからドイツへ向かう列車=ナタリア提供)

  <カリーナ編>速やかな決断で助かった命

 侵攻開始の前日2022年2月23日。カリーナ・シェブーズは家の近くの士官学校から軍用車が撤去されるのを目撃した。ロシア兵は2月24日に町にきた。彼女が住むスームィ市はウクライナ北東部にあり、ロシアとの国境に近い場所。そんな位置関係のため、特に爆撃が始まった後の住民の不安は募るばかりだった。カリーナの一家はまず唯一窓のない部屋である浴室に、それからは地下室に隠れていたが、一刻も早く逃げる必要性を察し、間もなくスームィ郊外に避難。彼女の友人たちからは脱出に関するメールがいくつも来ていた。「最初の2日間はまともな食事はできず、スナック菓子のようなものだけ食べて過ごしました。都市部では朝5時に爆撃が始まり、午後2時には兵士を見かけました。窓の外には戦車も見えました」。

ウクライナ北東地区からフィンランドへ、カリーナの足取り

 彼女は一緒に逃げるよう母親と祖母を説得。保険会社に勤めていた母親は仕事を辞め、母親の知り合いがいて、頼れる可能性があるフィンランドのヘルシンキへ行くことにした。一家はスームィを出発し、バスと電車を乗り継いでウクライナのキーウ、ポーランドのワルシャワ、そしてリトアニア、ラトビア、エストニアを経由し、最後はフェリーに3時間揺られてヘルシンキへ到着。危険なロシア国境から遠ざかる3日間の行程は恐怖の旅だった。到着後、カリーナは、一軒家に他の避難者20人と共に寝泊まりすることになる。小さな子どもが多かったため家の中は賑やかで、カリーナが大学の勉強をしたりオンライン授業を受けたりするのに適した静かな場所はなかった。

 カリーナの一家は6か月間ヘルシンキで暮らし、その間仕事もした。早朝から夜10時までイチゴ農家で働いたこともある。そこで彼女が得た1日の最高収入は、なんとウクライナの月給の最低賃金と同じ200ユーロ。 高収入を得られたのは、賃金の支払いが時給9ユーロの時間単位ではなく、(収穫したイチゴの)キロ単位だったから。 「フィンランドの賃金はウクライナよりずっと高いので、生活するのに十分な収入を得ることができました」。

 やがてカリーナには現地でも友人もでき、生活を楽しむ余裕も出始めた。毎日があっという間に過ぎていったという。「イチゴの収穫は給料がかかっているので競争みたいなもの。とにかくスピードが大事。一列の片側を一人で担当するのですが、ぐずぐずしていると他の列を摘み終わった人が自分の列に来てしまうの。自分のイチゴを誰かに取られないように、できるだけ早く摘まなきゃいけません。とにかく早く多く収穫しようと、ある種のゲームのような感覚でした。毎日があっという間だったのはそのせいかもしれません」。

 イチゴ農家の仕事以外にも、カリーナはウクライナ人が近所のショッピングセンターで言葉の壁を感じていることに気づき、ボランティアの通訳も務めていた。あるときオンラインで受講を続けていた大学からTUJの奨学金の案内を受け、勉学を継続したいと考えていた彼女は申請を決意。先生たちはとても協力的で必要な書類を用意するのを手伝ってくれた。そして届いた合格通知に、「おめでとうございます。あなたは奨学金を獲得しました」の文字があった。

 カリーナはこの縁を何かの運命だと感じている。毎年誕生日の1月1日に「今年の目標」を家族に発表するが、2022年は「海を見たい」「外国に行きたい」だった。皮肉にもロシアのウクライナ侵攻により、彼女はフィンランドと日本という世界の両端の国を旅することになった。

  <ナタリア編>新たな旅立ち ー ヨーロッパから日本へ

 ナタリアは、2014年にロシア軍がクリミアに侵攻し、彼女の住む町クラマトルスクを4か月間占領したときのことを今でもよく覚えていると語る。2022年2月24日の侵攻開始は、ロシアによるウクライナ攻撃の第2ラウンドの始まりを意味すると、彼女にはわかっていた。それでも最初のうちは数日で終わるだろうと思っていたため、一家で10時間も浴室に隠れたことも。しかしその後、爆撃が数週間にわたって続くと、父親から、母親と一緒にドイツに向かうよう説得される。そのころにはウクライナはどこもかしこも危険で、出国する決意をした。

 キーウ国立文化芸術大学4年生のナタリアはジャーナリズムを専攻し、テーマはメディア研究。卒業までウクライナに残り、学位取得を果たしたいと望んでいたが、それは戦争のためかなわなくなった。父親はSNSを駆使し、ウクライナ国外にナタリアたちが滞在できる場所を見つけた。そしてドイツ西部ホンブルクに向けた旅が始まった。故郷を離れるドイツのベルリン行きの満員列車に乗り込んだとき、彼女の所持品はノートパソコンと着ている服だけだった。 

 ウクライナには短距離・長距離あわせて広大な鉄道網がある。ナタリアと母親が乗ったのは個室寝台列車。1つの個室に2つの2段ベッドがあり、4人家族の利用を想定したものだが、このときは、子どもや犬を含む14人がこの狭い空間に詰め込まれた。もちろん食事の提供などなく、36時間の旅の途中で食べものはほとんどなし。300ミリリットルの水の配給を2人で分け合ったことを、ナタリアはつらかったと振り返る。駅をはじめ鉄道インフラがロシアの攻撃の標的となったにもかかわらず、ウクライナの鉄道は多くの人々にとって安全な場所へと避難するための数少ない手段だった。「列車は私たちを西へ、ウクライナの中でも安全な地域へと運んでくれた」とナタリア。とはいえ彼女は、その列車がどこへ向かっているのか、どこが終点なのか知らなかった。列車は安全状況が変わると方向を変え、サイレンが鳴ると停車して待機し、次の場所に移動することを繰り返した。

クラマトルスクからドイツへ、ナタリアの足取り

 ドイツに逃れたナタリアは、母親と共に安全な場所にたどり着き、ようやく胸をなでおろした。ホンブルクという小さな西部国境の町に5か月間滞在した。ウクライナで爆撃と鳴り響くサイレンの中で1か月を過ごした彼女は、ドイツの平和と静けさに逆に慣れることができなかったという。「何が起こったのか理解できず、毎日怖くて目が覚めた」という彼女は、毎晩ウクライナの夢を見て、すぐにでも故郷に帰りたい思いでいっぱいだった。しかし、唯一ドイツ語を話せるナタリアを家族が必要としていたので帰るわけにはいかなかった。 

 ナタリアはキーウ国立文化芸術大学の講義をオンラインで継続する一方、ドイツ語の勉強もしなければならなかった。ドイツ政府は一時的に保護されたウクライナ人に対し、「インテグレーションコース(ドイツ語やドイツの歴史・地理・政治などを学ぶもの)」の受講を義務付けており、ナタリアは1日4時間、週5日の授業を受ける義務があった。

 彼女は、ふと自分はいったい何をしているのか、なぜ大学の専攻を中断してドイツ語を勉強しているのか、と悲しくなったと話す。ジャーナリズムの勉強を続けたかったナタリアは、空き時間に勉強を続ける方法がないか、奨学金プログラムを探し続けた。しかし、ほとんどが理系の学生向けで、彼女のようなクリエイティブ系の学生対象のものはなかなか見つからなかった。もともと日本の奨学金に応募することは考えていなかったが、TUJというアメリカの大学の日本校が提供する奨学金のことを知って、このチャンスに挑戦してみようと決めた。「申し込んだのはたしか締切の前日でした。 日本はヨーロッパからあまりに遠く、(留学先としては)考えたこともありませんでしたが、思い切って挑戦することにしたのです」。

 申請書を作成して応募し、結果を待った。しばらくすると、TUJから「おめでとうございます。あなたは奨学金を獲得しました」というメッセージが届いた。この日のことをナタリアは「信じられないような朝でした。この数か月間でいちばん大きな驚き。私の人生を変える出来事でした」と振り返る。最初、日本が地理的にも心理的にもあまりに遠い国だったため、これはもしかしたら詐欺かもしれないと疑った。TUJのウィルソン学長と担当者の名前をインターネットで調べ、彼らが実在する大学の人物だと確かめるなど、両親にそのニュースを報告するまでに3日かかったという。さらに学長と担当者とのオンライン面談に臨み、実在する人たちで何も問題がないことを確信。安心して日本留学を決断した。いよいよドイツを離れて日本へ向かうときのことを、ナタリアは「暗闇から光が差し込むようだった」と話してくれた。

 ナタリアとカリーナは他のウクライナ人学生と共にTUJで秋学期から学生生活を送っている。2人とも、勉学に励みながら東京での生活も楽しんでいる。学校での生活にも慣れ、寮も気に入っているそうだ。東京の街はとても清潔で地下鉄の車内はとても静かだという。ナタリアは東京を「まるで別の惑星のようにすばらしい」と表現している。カリーナは、ドキュメンタリー番組でしか見たことのなかった渋谷の交差点を実際に歩いてみて大興奮。東京の高層ビル群も「インスピレーションを与えてくれる」と話している。

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 【TUJのウクライナ人学生インタビュー】第1回 ウクライナからの避難

(日本語)https://www.tuj.ac.jp/jp/news/2022/11/10/the-evacuation-from-ukraine

(英語)https://www.tuj.ac.jp/news/2022/11/10/the-evacuation-from-ukraine

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